自動車工業とトラック

中古車情報でも以前見ましたが、わたしたちの国の自動車工業の機械設備そのものは比較的温存されていたことに注意しなければなりません。


わたしたちの国工業の空襲、艦砲射撃の奎目は、エネルギー、機械部が大きかったが、自動車工業にいたっては、トラックの生産を昭和16年の月産4400台から被害直前には設備の外地移駐、疎開などで月産3600台へと18%を、さらに空襲などによって2企業、2工場を焼失して、結局、月産750台へと20・8%を減少させただけでした。


したがって、自動車工業は、昭和11年代に輸入されたアメリカ、ドイツの自動車工業の機設備を改良・発明する時間的余裕もなくそのまま温存させていたことになる。


それはアメリカの戦略爆撃の第一目標が都市、石油精製、航空機、船舶、鉄道に集中したことに原因があります。


ともかくわたしたちの国の自動車工業はトラックに関するかぎり、原材料さえあればある程度量産可能な状態でした。

敗戦直後の自動車工業の状態

わたしたちの国の自動車工業は、航空機、船舶最優先策によってその生産能力を縮小し、減少傾向をたどっていました。


そして鉄道中心の交通体系のもとで未発達かつ貧弱であった道路上を軍民合計4万3000台の可動トラックが無修理、部品不足のまま、すりへったタイヤをつけて各種の代用燃料を用い走りまわっていたにすぎない。


とく罠間輸送にいたっては、乏しい自動車を軍に徴用されたため、馬車、荷車、自転車、リヤカー依存の昭和前期の交通体系に逆もどりしていました。


中古車情報によりますと、昭和20年未の通運棄用所有運難具をみると、トラック5808台(うち普通車3922台、小型車2838台、特殊車248台)に対し牛、馬車4566台、荷車、リヤカーは実に芳4875台に達していたそうです。

自動車文明

中古車の検索によれば、わたしたちの国の自動車工業は、この自動車文明を自由に享受したのではないそうです。


占領下という全く自主性を喪失した状態でアメリカ占領軍の軍用トラックの修理、部品の国産化という過程から新しく出発せざるをえなかった。


ただ戦前とちがって自動車工業の設備が比較的温存されたうえ、朝鮮特漿が発生したため、旧陸軍にかわってアメリカ占領軍に依存して戦前と同じく軍用トラックに傾斜して急速に再建されてしまった。


それだけではなく、与えられた自動車文明に対し、まず日本型自動車というべき二、三輪車の小型車を戦前以走発展させ、もっともおくれた乗用車と民需用トラックの過渡期の役割をつとめさせたのでした。

自動車文明の輸入

太平洋戦争は、わたしたちの国自動車工業からいうと、わたしたちの国に進出したアメリカのそれに対抗するため、旧陸軍の保護育成下にすでにGMに敗退したグラハム・ペイジのプラント輸入、すなわち模倣として成立、発展し、そしてアメリカの石油輸出禁止でその機能を失いながらその模倣の対象たるアメリカの自動車工業と戦ったことになろう。


中古車情報によりますと、昭和20年8月の無条件降伏は、わたしたちの国の自動車工業にとって最大の保護者であった旧陸軍が全面的に崩壊し、それにかわって、わたしたちの国の自動車工業を圧迫しつづけたアメリカのそれが戦勝者になったことだそうです。


と同時にアメリカの自動車工業の発展を基準とすれば、わたしたちの国のモータリゼイショソを歪めた旧陸軍に象徴される社会、経済的要因が否定され、民主主義という名の自動車文明に象徴されるアメリカン・ライフが模範として導入されたことでもあります。

芸術品

中古車情報によると、昭和12年代には輸入、模倣段階をへて自立し、ともかく1500馬力以下の中小機では世界的水準以上に達したとのことでした。


零戦がその典型です。


零戦の特色は、資源に乏しいわたしたちの国にふさわしく量的拡大より質の向上をめざした設計方針に象徴されていました。


すなわち、量産の犠牲にもとつく操縦性、技術者パイロットの一体化による運動性の重視、防御力の犠牲による攻撃力の増大です。


いわゆる手工業的余地を残した芸術品でした。


したがって大平洋戦争の後半に優秀なパイロットが戦死し、原材料も不足するとその特色のためにこそ零戦の欠陥が表面化した。


零戦自体に改良の余地が乏しく零戦にエネルギーを集中しすぎたため、それにつづく新型戦闘機の開発、量産体制が確立できなかったのです。

航空機工業の反省

中古車情報をみながら、世界的水準に達した旧海軍の航空機工業にもふれ自動車工業の欠陥をうきぼりにさせてみようと思います。


当時最高の技術を必要とした航空機工業、とくに旧海軍のそれは、まさにトラック、戦車以上に全国力をあげて育成されました。


その方法として、全般的な工業水準の低さという後進性を克服するため、まずもっとも重要なエンジンと・・・機体の輸入→模倣→開発→生産から着手し、必要に応じて順次他の付属兵器の生産に波及させる重点主義がとられました。

民主化という占領政策

直接国策に協力し、軍用トラックよりも戦車、航空機を生産し、わたしたちの国最大の軍需会社に発展した三菱にとって、敗戦、それにつづく民主化という占領政策は、会社そのものの否定でした。


中古車の情報によれば同社は、こうした占領政策に対処するため、20年10月、事業目的から艦艇、航空機、水雷その他の兵器の生産を削除し、経営者を交替し、17の事業所を閉鎖、合併したそうです。


同社は、膨大な軍需補償の打切りについで長崎、広島造船所、3原車輔、茨城機器製作所を除く全工場が賠償に指定され、制限会社令、集排法もまた適用されました。

整理計画

ヂーゼル自動車もまた新たに資本金1億5000万円をもって商号いすづ自動車と改称する整理計画を作成しつつあったのです。


その最大の被害者が三菱重工業であることはいうまでもありません。


三菱もまた自動車メーカーであった歴史を有します。


三菱は、昭和22年産3000台のトラック、バス工場を蒲田区下丸子に建設したが、日華事変の勃発とともに国策にそって戦車生産工場に転換した。


さらに中古車情報によると昭和16年には川崎市鹿島田に自動車製造工場を完成させ(現川崎自動車製作所)、南満州鉄道会社用のガソリン、ディーゼルの大型バス、「ふそう」を生産したが、昭和19年に入るとその生産を中止し、小型艦艇用の高速ディーゼル機関の生産に主力を移したのでした。

各種自動車部品を生産する会社に縮小

トヨタは、昭和22年9月には、挙母工場を中心として資本金2億円、従業員6363人(うち工員4963人、職員1400人)、大型トラック(BM型)1500台、小型トラック100台、小型乗用車50台、各種自動車部品200台分を生産する会社に縮小した。


中古車情報によりますと、日産も旧来の日産重工業として役員を交替させるにとどまったが、昭和22年とくらべれば、昭和22年には従業員7224人(昭和22年7657人、以下カッコ内は昭和22年の数字)だけはほぼ同じだが、ニッサン・トラック月平均290台(800台)、ダットサン乗用車75台(600台)、昭和22年4月~9月で1658万円の損失金を計上する会社に転落したそうです。

前回の続き

こんにちは。前回の続きです。


中古車情報をみると第3には過度経済力集中力排除法がこれに加わりました。


トヨタ、日産、ヂーゼル、三菱各社は、この集排法の指定をうけた(昭和24年占領政策

の変化によって指定解除)。


こうした企業の縮小、分断に加えて企業経理とその再建もまた統制されました。


昭和12年8月の会社経理応急措置法、それにもとつく企業再建整備法がこれらのメーカーに適用されました。


これらの諸法規によって昭和11年以降寡占化し、中国大陸に進出した自動車メーカーは分断され縮小されました。